人生の教科書を探して 第1話 『本の探偵、登場』

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今日は本を読もう-01

 東京のとある大きな交差点を曲がって、とある小さな神社を曲がった路地にそのアパートはあった。4階建ての昭和なつくり。映画のセットのようだ。
 目指す探偵事務所は2階の角にあった。#210。青年はそのドアのブザーを押す。

「ああ、定刻どおりですね。入ってください。鍵はかかっていない」。
 開けると、夕方の初夏の陽射しが窓からなだれこんできた。そして、目に入る。部屋中に壁のように立つ本棚、本棚、本棚。床が抜けないのか、青年がまず思ったのはそのことだった。そして、紙のさまざまな香り。本の森に迷い込んだ、青年は次にそう思った。

「ようこそ、本の探偵事務所へ」。

 部屋の窓際にある大きな机。男は座ったままで言った。
「メールであなたのお悩みもお望みも拝見しました。お探しの本を見つけておきました」。
 「ありがとうございます」。青年はドアの近くに立ちながら、小さく答えた。
「ああ、失礼。椅子を用意しましょう。それと飲み物も。すいませんが、今、アシスタントが長い休暇で、彼女がいないとホットコーヒーしかできません。よろしいですか」。
 まもなく、椅子は机の前に置かれ、机のはじに湯気の立つカップが置かれた。本棚以外にも本は様々な場所に高く積まれている。人が動き回れるスペースはあまりない。

「入社8年、仕事も責任を持たされ始め、いろいろ重くなる頃ですね。もうすぐ結婚する予定もおありになる。生活ががらっと変わる」。
「そうです。あのー、名刺を差し上げたいのですが」。
 青年はバッグのなかから名刺入れを出し、名刺を探偵に両手で渡す。
「ほうー、営業企画部、課長代理。次は課長、そして部長、やがては本部長、目指すは社長」。
「お名刺を」。青年は言う。
「ああ、名刺はありません。捨てられる確率9割では、紙に申し訳ありませんからね。それと、あなたとお会いするのはこれっきり。一期一会が人生の本質です」。
「あ、わかりました」。青年はコーヒーを一口飲む。予想外のおいしさに驚く。
 そして腰を伸ばして話し始める。
「欲望について悩んでいます。欲望にはふたつあると思うんです。ひとつは叶えられない欲望。たとえばノーベル賞をとるとか。もうひとつは叶えられかもしれない欲望。中目黒に一軒家を建てて住むとか。後者の欲望は、毎日の行動の原動力になりますね。給料が増えればいいのですから、仕事のスキルをあげる、上司に気に入ってもらう、人一倍働くといった行動です」。
「なるほど。中目に戸建て。それなりに大きな欲望です。あなたのようなまだお若いビジネスマンにとっては」。
「しかし、ここで問題があります。それは、上司が充分イヤな人間でも気にいってもらわなければいけないのか?成果を上げるために、毎日、残業するべきなのか?などなど」。

 夏の日は傾き始め、本棚の本たちをまばゆく浸し始めている。探偵は50代に見えるが定かではない。濃紺のスーツを着ているがノーネクタイ。その顔にもきらきらと夕陽が揺れながら差している。青年は続ける。
「つまり、欲望をエンジンに、あるゴールに向かう時、さまざまな障害物がある。その障害物を越える努力を僕はいとわないつもりですが、しかし・・・」。
 青年は手をかざして、夕陽をさえぎる。眩しいだけでなく暑い。窓がすっかり開け放たれていることに初めて気付く。クーラーはどこにあるのか、あるいはないのか。
「しかし・・・。さて。その続きを聞く前にブラインドを降ろしましょう。本が焼けてしまいますから。コーヒーのおかわりはいかがですか」。
 探偵は立ち、紐をたぐりながらブラインドをカシャカシャと下げる。思いのほかの長身だ。さらにスリム。
「いえ、結構です。・・・自分が壊れてしまわないかと、それがとても心配なのです。自分らしく生きることとの兼ね合いも、心配なのです」。
 探偵は青年の目をまっすぐ見つめる。
「もうひとつ、お考えのことがありませんか。それは、あらゆる障害物を越えた時、本当にそこにゴールがあるかどうかという不安」。
「よくわかりましたね、そこなんです。
社会人になって、社会の仕組みや会社の構造がわかるようになって初めて、
自分はもっと上に行きたいと思ったとも言えます。アッパークラスの住人になりたいという欲望に目覚めたというか。だからこそ、悩んでいるし、将来の落胆の可能性にもナーバスになっています」。
「それは、人間そのものの問題。特に、人間が社会的生き物になった時からの問題です」。

 探偵は立ち上がって、照明をつけた。それはオレンジ色に部屋を静かに照らし、そこかしこに本の影を深くつくった。
「マズローの5つの欲求段階。一番下に生理的欲求,一番上に自己実現の欲求がある。人間が充分に動物的であるならば、下だけで済んだものを!」。
 そう言って、探偵は初めてほほ笑んだ。悪くない笑顔、その昔は女性にもてたかもしれない。青年は思う。
「マズローは、優秀な人間ほど欲求のレベルが上がると考えた。だが、肝心なことを想像できなかった。それは、人間は一度に5つのレベルの欲求に苛まれることもあるということ。そして、どの欲求も叶えられなければ、そのレベルの差にかかわらず、人を苦しめるということ」。
「欲望は、人を高めることも傷つけることもあります。欲望を従者にするのか、逆に従者にされるのか。そう、僕はどう生きたらいいのか。そこを今、考えていて、結論を得たいと思っています。前に進みたいので。教えてください、答えを」。

 探偵は首を右と左へ振った。
「私は答えを出しません。哲学者でも占い師でもありません。残念ながら」。
 そして、一本、指を立てて話した。
「そのかわり、古今東西の本のなかから、あなたに会わせたらいい本を探します。その本を読んでください。答えはすべて本のなかにあるのです。おわかりですか」
青年は、最後のコーヒーの一口を飲み、
「わかりました」と答えた。
「そして、その本は?」

 探偵は大きくうなずき、机の上の散乱した本のなかから、崩し引き抜きし、一冊の本をやっと取り出した。
 それは文庫本だった。青年は立派な装幀の本を期待していたので、そのみすぼらしさにかなり落胆した。
 探偵は、また青年をまっすぐに見つめてこう言った。確信に満ちた声で。
「あなたに会いたがっていた本はこれです。あなたに人生を教えてくれるでしょう」。
 青年は探偵の手元を見た。
「ちょっと解説をしましょう。なぜ、この本があなたの人生の教科書になるのかを」。
 そして、一冊の本を青年の前に滑らすように差し出した。

「ウイリアム・シェイクスピア著。マクベス。福田恆存訳です」。
              
              (第2話に続く)

マクベス (新潮文庫)

 


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黒澤晃

黒澤晃

黒澤晃 Akira Kurosawa 1978年、広告会社・博報堂に入社。コピーライター、のちクリエイティブディレクターになる。数々のコミュニケーション戦略を立案し、ブランド広告を実施。多くのクリエイターの先生役も務めた。2013年、博報堂から独立。著書「マーケティング・センスの磨き方」(マイナビ出版)「これから、絶対、コピーライター」(宣伝会議)など ◎ホームページ:ことば℃