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いい文章は、いい人生から生まれることを、星野道夫に学ぶ。

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出会えてよかったな、と思う本がいくつかあります。その数はそれほど多くはありません。気の置けない親友がそれほど多く必要ないのと同じように、そういった本との出会いも、きっと量より質であり、広さより深さなのだと個人的には思います。そういう意味で、「本との出会い」と、「人との出会い」は、やっぱりどこか似ているところがあります。

最近になって読んだ、星野道夫さんの「旅をする木」は、僕にとってその大切な一冊となりました。星野さんのことを、僕はあまり知りません。アラスカの大自然の中で生きていた日本人であること。探検家であり、写真家であり、文筆家であること。熊に襲われて、若くして亡くなったこと。書籍がいくつかでていることは知っていたけれど、親友に強く勧められて「旅をする木」を手にして読みはじめました。冒頭の文章を紹介します。

 フェアバンクスは新緑の季節も終わり、初夏が近づいています。
 夕暮れの頃、枯れ枝を集め、家の前で焚き火をしていると、アカリスの声があちこちから聞こえてきます。残雪が消えた森のカーペットにはコロコロとしたムースの冬の糞が落ちていて、一体あんな大きな生き物がいつ家の近くを通りすぎていったのだろうと思います。
 頬を撫でてゆく風の感触も甘く、季節が変わってゆこうとしていることがわかります。アラスカに暮らし始めて十五年がたちましたが、ぼくはページをめくるようにはっきりと変化してゆくこの土地の季節感が好きです。
 人間の気持ちとは可笑しいものですね。どうしようもなく些細な日常に左右されている一方で、風の感触や初夏の気配で、こんなにも豊かになれるのですから。人の心は、深くて、そして不思議なほど浅いのだと思います。きっと、その浅さで、人は生きてゆけるのでしょう。

星野さんの言葉はとても平易で軽やかです。そしてただただ、日常を綴っているだけなのかもしれません。しかしそこにはアカリスがいて、ムースの冬の糞があって、ページをめくるように変化する季節があります。いい文章とは、結局のところ「いい生き方」から生まれるのだと思います。星野さのこの言葉たちは、素敵な生き方からしか生まれないものです。その場所での思いや感覚といった伝えたい「何か」があるから、紙とペンをとり(マックを開き)、ひとは文章を綴ります。つぎの瞬間、すぐに消え去る「感情」を真空パックして、いつかまたとり出せるようにしたり、誰かに届けたりするためです。

僕たちは星野さんの文章によって真空パックされた、アラスカの空気や感じ、動物たちの鳴き声を聞くことができます。それは、本当にすばらしいことです。

星野さんは、都市で暮らす人々へ警鐘を鳴らします。とてもやさしい口調で、美しい文体で、厳しく問いかけてきます。あなたたちは、この世界に生きることの素晴らしさと悲しさをどれだけ知っていますか。空がそこにあることすら忘れているんじゃないですか?風や森や自然がもたらすささやかだけど満ち足りた幸福を。そこで生きる動物たちのことを。そして、誰にでも訪れる「死という自然」のことを。みなさんは忙しない毎日のなかで、どこかで忘れてきてしまい、それどころか、それらを破壊しようとしているのではないだろうか。

この本を読み終えた時に、「もっと早くこの本と出会いたかった」という後悔と、「若いころに出会わなくてよかったのかもしれない」という安堵がありました。「旅をする木」は、とても強く人の価値観を揺さぶる本であり、もっと若い頃に読んでいたら、自分は全てを投げ出し今すぐフェアバンクスに行ってアカリスと暮らさなければならない!と考えただろうと思います。若くして、アラスカに飛び出していった星野さんの姿を想像して、自分にあったかもしれない、そういった可能性について思いを巡らせてしまいます。

そして、もう一度あの頃の自分に戻れないか、とも思ったのです。つまり、目の前からスーッとこれまでの地図が消え、磁石も羅針盤も見つからず、とにかく船だけは出さなければというあの頃の突き動かされるような熱い想いです。そして辿り着くべき港さえわからない新しい旅です。もしかすると、誰の人生もさまざまな意味で、そういうことなのかもしれませんね。

この本を閉じたとき、きっと誰もが旅をしたくなります。それは海外にいくとか、バカンスをとるとか、そういったものとは違う意味での旅です。好奇心に導かれ、知らない場所に飛び込んでいき、そして新しい人々と出会い、世界に溢れる神秘を覗き、自分の中に眠る未知の感情と触れること。わたしたちの人生の豊かさとは、きっとそういう旅の中にあるのだと思います。


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コピーライターの目のつけどころの読書日記

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牧野圭太 Keita Makino 1984年生まれ 。コピーライターが読書を通して考えたことを書いていきます。テーマはことばやデザインやその他もろもろ。
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