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人生の教科書を探して 第4話 『ほら、風の又三郎がいるよ』

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今日は本を読もう-01

 由季子の前には、古ぼけた「風の又三郎」が置かれている。名前は知っている。でも読んだことがない本の典型。

 「宮沢賢治は生涯で何冊の本を出したかご存知ですか」。
 探偵は窓のほうに歩きながら尋ねる。
「十冊くらいでしょうか」
「いい線です」
 窓を開ける。古いビルだからだろう,窓が開くのだ。
「2冊です」
 どこが、いい線なんだと思ったが、由季子は突っ込まないことにした。

「生涯でたったの2冊。1冊は自費出版。宮沢賢治は死んでから大ベストセラー作家になったのです。生きている時は、単なる東北の一農村の教師、技師です」。

「死んでから自分の作品がこんなにすごいことになるなんて思わなかったでしょうね」。
「淋しい生涯でした!たった37年間の!」
 探偵は声のボリュームを上げる。由季子は溜め息をついた。
「ワタシとたいして変わらない年で、さようならするなんて」

 ブラインドが揺れている。風が吹いて来たのだ。
「夏最後の台風が来ていると聞きましたが」
 探偵は窓の方を見ながら言った。
「でも関東には来ないと予報していました」
 ガサガサと小刻みにブラインドが揺れる。由季子は少し背中がぞくっとした。
「ま、たいしたことはないでしょう。話を続けます」

 おもむろに、探偵は「風の又三郎」を手にすると、声高らかに舞台にいる役者のように読み始めた。
「どっどど どどうど どどうど どどう、青いくるみも吹きとばせ」
何かに取り憑かれたように、声高らかに。
「すっぱいかりんもふきとばせ どっどど どどうど どどうど どどう」

 その時、由季子のボブの髪がふわっと持ち上げられて動いた。小さな風が過ぎて行った。心臓はコトリコトリと2回、激しく打って、また背中がぞくっとした。
 「さぁ、本の世界に入ってみましょう。さぁ、理性のエンジンを切って、目を閉じるんだ。何も望まず何も求めず」

 由季子の目の前には、緑の野原のはるかな起伏が広がっていた。さまざまな植物の、さまざまな緑が、少し水をふくんだ筆で描かれたようにキラキラしていた。
 そして、風が吹いていた。どどうど。どどうど。
 緑の中には道があった。遠くの野原には、馬が見えていた。そう、それは確かに数頭の馬だった。
 空の彼方には、嵐の前触れのような雲がずんずんと湧きあがり、黒い影のように動いていた。
 どこにも,家はなく、ましてや工場もなく、コンビニもなく、電信柱もなく、ただ懐かしく遠く、絵のなかでしか見たことのないような世界が広がっていた。

 時間は完全に止まっていた。風が吹いている。だから、時間は止まっていないはずだと心に言い聞かせつつ。
 あまりにも静かで、自分がこの世界の一部となってしまったことを感じる。自分が世界の中心ではなく、すべてのなかに溶け込んでしまっている。

「お姉さん、何しているの?」
ふと気がつくと、赤い髪をした少年がいる。

<鼠いろの上着の上にガラスのマントを着ているのです。それから光るガラスの靴をはいているのです。>

「雷がきそうだね」
 由季子は少年の顔を見て話をしようと思ったが、その顔はマントの光の具合で輝いてばかりいて、よく見えなかった。でも美しい輪郭。
「ワタシは、怖いの。自分が消えそうで怖かったの」
「今でも?」
「ううん、今は楽。自分が消えてしまうのも悪くないって思えてる」
「難しいこと、言ってるね、お姉さん」
少年は、そうほほ笑んでふわっと宙に浮いた。

「ねえ、あなたが風の又三郎?」
「僕にはわからないんだよ。僕はある人の頭のなかから生まれたんだから。僕には役目があるんだよ」
「何、それは?」
「人を幸せにすることさ」
 風はどどうど、どどうど、ますます強くなり、どどうど、どどうど、少年のマントは激しくバタバタとはためいた。

「人を幸せにすると、自分も幸せになるのかな」

「ふふ。そんなことはわからないよ。
僕は役目を果たすだけ。ああ、風が吹いて来て、この野原を記憶ごと吹き飛ばしてしまうよ」

<稲光が二度ばかり、かすかに白くひらめきました。草を焼く匂いがして、霧の中を煙がほっと流れています。>

「じゃあね、お姉さん。また会えるよ、きっと」
 少年は、風のなかに溶け込んでしまうように、ふっと姿を消した。

 気がつくと、由季子は探偵事務所の本の森のなかにいた。長身で細身の探偵が、窓をひとつひとつ閉めている。
 由季子の頭は、まだ働きが戻ってこない。探偵は指をぱちんと鋭く鳴らして、こう言った。
「短い旅はいかがでしたか?さ、目覚めましょう」

 由季子は、本を大切にバックにしまい、事務所のアパートを出た。
 帰る間際に探偵は指を一本立てながら、「答えは本のなかにあります。それを、あなたが見つけ出すのです」と言った。

 駅に向かう途中にある花屋で、由季子は小さな白い花を買った。その花を胸に抱えて歩き始めた時。風がふわっと吹いて、彼女のボブの髪をやさしく揺らした。

第1話『本の探偵、登場』
第2話『マクベスは君だ』
第3話『彼女の些細で深い悩み』
第4話『ほら、風の又三郎がいるよ』


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黒澤晃

黒澤晃

黒澤晃 Akira Kurosawa 1978年、広告会社・博報堂に入社。コピーライター、のちクリエイティブディレクターになる。数々のコミュニケーション戦略を立案し、ブランド広告を実施。多くのクリエイターの先生役も務めた。2013年、博報堂から独立。著書「マーケティング・センスの磨き方」(マイナビ出版)「これから、絶対、コピーライター」(宣伝会議)など ◎ホームページ:ことば℃