人生の教科書を探して 第6話 『砂漠からの自由』

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今日は本を読もう-01

 古書の街、神保町に夕暮れがやってきた。

 棚の改装はほぼ終わった。棚と本ばかり見ていた探偵が外に目をやると、夕陽の光が路地に静かに沁み出していた。
 2名の学生アルバイトが挨拶をして帰っていく。「明日、またうかがいます!」
 戦後文学の棚は出来たが、そこから移転を余儀なくされた本たちを倉庫に運ばなければならない。しかし、それは機械的な作業だ。明日、学生アルバイトたちがやってくれるだろう。今日のように探偵が指示を細かく出さなくても。

 探偵は汗をかいた。白いTシャツが肌にくっつき、できたらシャワーを浴びたいと思ったが、その前に、泡がシュワーッとはじける液体を喉に流し込みたかった。ぐいっと勢いよく。

 「ごくろうさん。ビール冷やしてあるよ」
 おやじが言う。さすが弟子の心をお見通しだ。
 レジがある小さな机に、冷えた缶ビールがトントンと置かれる。おやじはその主人席に座り、探偵は丸椅子を持ってきて横に座る。そして、書店の窓外の路地を見ながら乾杯をする。

「ありがとうよ!リーダー。戦後文学に、乾杯!」
 「おやじさんと時空書房に、乾杯!」
 
 この一瞬だ。汗になった水分が、うまみになって体内にぜんぶ帰ってくる。うまい!と言うしかない。頭ではない、体がうまいと叫ぶのだ。立て続けに黄色い液体を喉に流す。

「黒いカラスがいる。僕はそう思ったよ」
おやじが唐突に言う。
「30年前の夜、店先に黒い鳥のようにうずくまり存在していたもの。それがおまえさんだった」

 探偵は缶ビールを握りながら、その店先に目をぼんやりとやる。夕暮れが闇へ溶け込み始め、通りすぎる人影が濃くなっている。

「警察の言うことには、誰かがおまえさんの胸をどんと突いた。凶器は先のとがっていない、大きなハサミのようなものだそうだ。ナイフや包丁のように鋭利なものだったら、本を突き通して心臓まで刃先は届いていたかもしれないと言っていた。いずれにしても、胸ポケットの女のおかげで、助かったわけだ」
 おやじは、レジのある机から、文庫本の現物を取り出した。

 安部公房「砂の女」。

 5、6センチ大の穴が、ちょうど本のまんなかの位置にあいている。
「すごい力だったはずだと刑事さんは言っていたな。それは、憎しみか、恨みか、嫉妬か。魂を変形させるほどのエネルギーの噴出だったのではないかと。刑事のわりには、やや文学的表現だと思ったがね」

 砂の女の現物に会ったのは30年ぶりだったが、探偵はその警察話を、おやじから何度も聞かされていた。そして、魂を変形させてまで、彼を突き殺そうとした犯人を思い起こそうとしたが、できなかった。本当に当時の交友関係のなかには見つけられなかったのだ。

 探偵は悩んだ。霧のなかを通過する何十台ものクルマのドライバー。そのぼやけた横顔を必死に捉えようとして焦り、ますます深くなる記憶の霧のなかで、手がかりがないかとまた焦るのだった。

 やがて、月日はすべてをあやふやにしたまま消し去っていった。すごいものだ、月日の忘却機能というものは!

「黒いカラスを抱き上げた時、額に流れていた血は僕の手も赤黒く染めた。
おまえさんは、圧倒的な暴力のひと突きで昏倒した。意識を失った。額の血はおそらくどっと前のめりに倒れたゆえのものだろう。そして、おまえさんはこの店の奥で二日ほど寝かされていたわけだ。入院するほどのこともないって警察に言われてね」

 ああ、それからだ、探偵がこの街に住みついて、新しい人生をスタートさせたのは。

 神に会うことで人生を改良させられる人もいれば、悪魔に会うことで人生を改良させられる人もいる。とにかく、この街は探偵に、生きるに必要なすべてを教えてくれた。言い過ぎではない、すべてだ、すべて。

 この街では、師に会い、仲間と会い、古今東西の本に会い、働く喜びを教えられ、人生を洞察する視力と知力を与えられた。そう、おいしいコーヒーの淹れ方も会得した。
 人は街をつくるが、街はまた人をつくる。この街そのものが、どう生きるかを教えてくれる、一冊の分厚い本なのだった。

「ところで、ずっと聞きたいことがあった」
 おやじは新しい良く冷えたビールを探偵に渡し、ピーナッツのつまみを皿に開けた。
「砂の女はぜんぶ読んだのか」

 探偵は口の端を少し持ち上げて笑った。
「読みましたよ、ちょうどあの日、電車のなかで読み終えたんです」

 砂の女・・・。不思議な話だったと探偵は、読了後にそう思った。ふとしたことから、砂のなかの女の家にとらえられてしまう男の話。主人公は、しかし、その男でもなく、女でもなく、砂そのものなのだった。

<砂—岩石の砕片の集合体。時として、磁鉄鉱、錫石、まれに砂金等をふくむ。直径2〜1/16m.m.>

 砂は質量を感じさせずに動く。荒涼とした砂漠もつねに激しく動き、新しい荒涼をつくり続ける。

<流動する砂のイメージは、彼に言いようのない衝撃と、興奮をあたえた。砂の不毛は、ふつう考えられているように、単なる乾燥のせいなどではなく、その絶えざる流動によって、いかなる生物をも、一切うけつけようとしない点にあるらしいのだ。年中しがみついていることばかりを強要しつづける、この現実のうっとうしさとくらべて、なんという違いだろう。>

 男は、砂の重さに押しつぶされてゆく家のなかで、女とふたりきりで暮らす。自由な外界へつながる唯一の装置である縄梯子は、はずされている。しかも、生活のためには、せっせと砂をかいて、家を押しつぶされないようにしなければいけない。生存を賭けた戦いの悪夢の日々。
 その頃、「東京砂漠・・・」という歌詞の歌謡曲が流行っていた。探偵は、本を読みながら、すぐその言葉を思い出した。

「ひとりひとりの人間が、究極の絶対的な自由を持っている。そうサルトルは言っている」
 おやじの得意領域は哲学だ。ずいぶんとそのややこしい論述には、鍛えられた。
 おやじは続ける。酔いが回ってきたのかもしれない。外は闇になり、店の灯りがきらめきを増している。

「なぜ、究極的な自由などと言ったのか。それは、近代の僕らのこの世界のシステムは、放っておけば不断に僕らから自由を奪ってゆくからだ」
「まるで、流動しつつ、僕らを囲い込む砂漠のように」
 探偵は合いの手を入れる。

「そうだ。砂の女は、その極限のオマージュだ」
「自由を望みながら、自由をえられない男の物語」

「人間は、神棚にある概念を、絶対的道しるべとして生きてきた。信仰、友愛、道徳、労働、謙虚さや貞淑。しかし、そんなものは頭のなかに存在しているだけだ。真実は今、僕ら個人に現実に起こっていること、行われつつあること。それしかないんだ」
「それこそが、実存しているもの!」

 おやじは、ピーナツを口に放り込みながら、顔をくしゃくしゃにする。
「よく、おまえさんとこんなくだらない話をしたなぁ」
「お互いに元気でしたね」

 古書の香りがする。今日、つくった新しい棚からだ。なくなった故人の書庫の匂いを引き連れて来ているのだ。

「そういえば、この前、役所に行ってね。申請書を出したら、あなたの身分を証明するものを出してくれって言われてね。いつものことだが、ふいに思った。僕はここにいるのに、なぜ、僕であることを証明しなければならないのかってね」
「砂の女のなかにも、印象深いパートがありましたね」
 探偵はパラパラとめくりつつ、彼の身代わりになった小説の一節を探し出し、読み始めた。

<ところが、その確認たるや、秩序のややこしさにそっくり対応した、おそろしく煩雑なもので、あらゆる種類の証明書・・・契約書、免許証、身分証明書、使用許可書、権利書、認可証、登録書・・・・・>

 例の、低いが良く通る声が続ける。

<さては、血統書にいたるまで・・・とにかく思いつく限りの紙片れを、総動員しなければならないありさまだ。>

「ふふ。そうだな、人間にも血統書がいるような時代になるかもしれんね」
「その時、人間は幸せなのでしょうか」

 おやじはぐいとビールを飲み干して、
「そりゃ、幸せなはずがないじゃないか」
 探偵もぐいっと飲み干す。
「腹が空いたな。餃子でも食いに行くか。何歳になっても腹が空くもんだな。ま、実存している証拠だ」

 おやじは入り口のシャッターを降ろすために立ち上がる。
「おやじさん」
「なんだい?」
「この砂の女、頂いてもいいですか?」
「ああ、もちろんさ、お前の女だったんだからな。ノープロブレム」

 探偵は、それを30年前と同じように、ジャケットの胸ポケットに入れる。
「ひとつ聞いてもいいですか?」
「今日は、質問が多いな」
「砂の女のラストは、どう思いましたか?」

「うーん、希望なのか、絶望なのか、よくわからないが、サルトルの言葉が浮かんだな」
「相変わらず、サルトルが好きですね」
「好きだよ、この世をサルトルとき、まで」

 おやじは、シャッターを降ろしながら、だじゃれのあとに、大きな声で、芝居がかりながら叫んだ。

「人間の運命は、人間の手中にある!」

 おやじと別れて、深夜の駿河台を駅の方に登ってゆきながら、その言葉が何度も探偵の脳内をかけめぐった。

 砂の女の「女」は、自由を望まなかった。砂に埋もれながらも、ただ毎日、単純作業を繰り返し暮らしてゆく。そんな女を、若き日の探偵は好きになれなかった。
 なぜ、飛ばないのか!なぜ、日常の外へ羽ばたかないのか!
 しかし、女はこうも言っていたことにさっき気がついたのだった。

<本当に、さんざん、歩かされたものですよ・・・ここに来るまで・・・子供をかかえて、ながいこと・・・もう、ほとんど歩きくたびれてしまいました・・・>

 そうだ、彼女も運命を自らの手中にしようとした。ただ、それが挫折に終わっただけ。若さゆえに、読み落していたのだ。

 駅に近づき、行き交う人の数が多くなってくる。楽器屋から爆音のロックが流れてくる。電車がレールを軋ませて近くから遠くへ駆け抜けてゆく。居酒屋から若い笑声が弾けて、こぼれてくる。

 みんな元気でいろ。流動する砂漠のようなこの世で、時に希望を踏みにじられながら、不条理の嵐に吹かれながら。元気でいろ。

 夜のニコライ堂が薄明るく厳かに光っていた。その大きなドームを見上げながら、探偵は思った。

 生きている。ただそれだけが、僕らが信じるべき、確かさなのだ。

砂の女 (新潮文庫)

第1話『本の探偵、登場』
第2話『マクベスは君だ』
第3話『彼女の些細で深い悩み』
第4話『ほら、風の又三郎がいるよ』

 


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黒澤晃

黒澤晃

黒澤晃 Akira Kurosawa 1978年、広告会社・博報堂に入社。コピーライター、のちクリエイティブディレクターになる。数々のコミュニケーション戦略を立案し、ブランド広告を実施。多くのクリエイターの先生役も務めた。2013年、博報堂から独立。著書「マーケティング・センスの磨き方」(マイナビ出版)「これから、絶対、コピーライター」(宣伝会議)など ◎ホームページ:ことば℃